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土山ろまん第30号

鷗外と清張 (表紙)


「山椒大夫」、「高瀬舟」などの名作で知られる森鷗外が土山を訪れたのは明治33年3月、鷗外39歳のこと、この地で40年前に亡くなった祖父森白仙の菩提を弔うためであった。鷗外は人骨が散乱しているような荒れ果てた状態の墓地(今の大山橋のたもと)に祖父の墓を見つけ、これを常明寺に移した。その後鷗外自身は来なかったものの明治39年に祖母清を、また大正5年には母ミ子(ミネ)を常明寺に祀っている。しかしながらこれらの墓は現在では石見の国、津和野の永明寺(ようめいじ)に移されて、常明寺には新しい供養塔が建てられているのみである。なお森白仙は津和野藩の医者であったが、持病の脚気のため江戸から国許に帰る藩主の供が出来ずに周囲から白眼視されていた。やむなく療養不十分のまま遅れて帰国の途に着いたが、無理な長旅をした挙句ついに土山の宿で病死したのである。


鷗外の来訪から85年後の昭和60年3月に「黒革の手帳」、「砂の器」などで有名な作家松本清張が土山の地を訪れ、常明寺住職塩澤玄泰師に案内を請うている。晩年近くに清張は鷗外の足跡を克明にたどった「両像・森鷗外」を発表しているが、その取材のために訪れたのであった。このなかで彼はなぜ鷗外が祖父の死後40年も経ったこの時期に祖父の墓を訪れる気になったのかを推測している。それによれば軍医であった鷗外はこの時期には九州小倉の師団に左遷されて失意の心を抱いており、祖父もまた病気と失意の中で旅空に虚しくなったことに強い想いを抱き、東京への出張の途次に土山を訪れたのではないかと書いている。清張のデビュー作は昭和27年の「ある『小倉日記』伝」であり、これまた鷗外にまつわる小説であった。


このほど東海道伝馬館の前に鷗外の文学碑が建立された。明治の文豪のみならず昭和の大作家にも思いをはせていただきたいものである。


東海道伝馬館の玄関に建つ森鴎外の文学碑

土山の城址探訪その2 (2面、3面)


土山には鎌倉時代から、南北朝、室町、戦国時代そして安土桃山時代にかけて大小入れると20以上の城や砦があったとされていますが、そのうち主だったものは7ヶ城あります。前回に紹介した鮎河の3ヶ城に続き、残る4ヶ城を訪ねてみました。


山中城址


山中の十楽寺近くにあったこの城には鎌倉時代から山中氏が居り、山中村の地頭職として鈴鹿の山賊を鎮める役目を受けていた。後、山中氏は柏木荘に移り宇田に城館を築いて住んだ。今でも水口の宇田周辺に山中姓が多いのはそれ故であろう。1542年に伊勢の北畠氏が甲賀に侵入してきたときには山中氏は六角氏の応援を受けてこれと戦い敗退させている。この戦いは蟹坂付近で行われたことから蟹坂合戦として伝えられている。山中氏は1585年に秀吉に領地を没収され、また関が原の合戦の直前には伏見城に籠城して当主以下10名の戦士が全員戦死している。伏見城は戦略上、徳川方の捨石になる運命であったため、籠城に先立ち一族の滅亡を予感した当主は家代々に伝わる文書を伊勢神宮に納めてから伏見に赴いた。従って現在も山中文書は神宮文庫に残されている。


山中城址

頓宮城址


頓宮の東光寺の裏山にあった城で鎌倉時代から勃った土豪頓宮氏が築いたものである。頓宮氏は甲賀五十三家のひとつで南北朝のころは南朝に属しており、頓宮弥九郎が鮎河城に立てこもって2度にわたって北朝側と戦ったが敗れて伊勢に逃れた。その為しばらくの間は岩室氏にこのあたりの支配を奪われていたが、室町初期には復帰して地頭に任ぜられ山中氏とともに土山を支配した。15世紀末に音羽野城に移ったため、廃城となった。鮎河の黒川城にいた黒川氏、同じく鮎河に居た大河原氏、土山城に居た土山氏などは皆この頓宮氏の一族である。城址はほとんど残されていないが山上に広がる台地は今も城山と通称されている。


頓宮城址

音羽野城址


頓宮城に居た頓宮氏が15世紀末にこの音羽野へ移り住んで築いた城である。青瀬橋の南東にある丘の上にあり、今でも壕の跡がはっきりと残り、また庭石らしき苔むした石が散見される。この当時の配下の名には、飯塚、根縫、宇佐見、堀などの今も青土にある姓が見受けられる。頓宮氏は近江の守護大名六角氏の下にあったが、六角氏が信長に滅ぼされた後は信長につき、さらに後は秀吉に従った。しかし秀吉が今の和歌山にある雑賀衆や根来寺を攻めたとき、紀伊川の堤防修復工事を命ぜられたものの不手際があったとして1585年に同族の黒川氏、大河原氏とともに城地を没収された。


音羽野城址

土山城址


北土山の畑地区を東西に走る道は土山町の中では最古の道と伝えられている。その道の北方の丘には土山鹿之助が15世紀後半に築いた土山城があった。鹿之助は音羽野城の頓宮氏の分家で甲賀五十三家のうち特に武名高い二十一家のうちのひとつである。城址は現在でもよく見ると空壕の跡が残されており、屋敷があったとされる平坦地も認められる。土山城は織田信長の家臣で大原出身の武将滝川一益に1582年に攻められて落城したが、秀吉と家康が戦った小牧、長久手の戦いの時には秀吉の道中の拠点のひとつとして整備された。このとき秀吉は土山から山女原の安楽越を通って伊勢に抜けたのである。また土山氏はその後、徳川家光の時代に本陣職を命ぜられ、以後代々これを勤め、現在も土山本陣跡を守っておられる。


土山城址

こんどの東海道シンポジウムは五十七番目の宿でっせ! (3面)


東海道は五十三次やと私らは思い込んでましたが、実は五十七次あるねんというのが、近頃は通説になってます。というのは五十三次は江戸と京の間のことで、実は東海道は江戸と大坂を結ぶ道やそうで、この間には五十七次あるんやそうです。これは幕府の出した文書や、東海道分間延絵図でそうなってるんやそうで間違いないそうです。幕府の理屈では西国の大名たちが京に入って朝廷と接触してよからぬ相談をしたら困る、せやし京には入るな、手前の山科の追分から伏見のほうへ廻って行け、ゆうことを命令したんやそうです。それに大坂は天下の台所やし、モノの流通のためにもその方が便利やろとゆうわけです。せやし大津宿の次は伏見宿、そして淀、枚方、守口ときて大坂となるわけです。ここらは徳川はんの世になって間無しの1616年に宿駅に指定されてます。実はその前の太閤秀吉さんが大坂の城と伏見の城を行き来するのに便利なように、文禄3年に淀川の東岸に堤を造らはって、その堤の上を道にしたのがこの大坂街道やとゆうことです。別名、京街道とも云いますけど。せやしこの堤のことを太閤堤とか文禄堤と呼んでまして、今でも守口の中心にはこの堤が残ってます。その守口の歴史街道推進世話人会の人らが音頭とってこの秋に東海道シンポをやってくれはります。大阪でやるのは初めてやそうで、11月の12と13の2日間、お手すきのお人はぜひ守口へ行ったげてください。

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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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