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土山ろまん第28号

新しくなった道の駅あいの土山 (表紙)


商店の先頭に立たれた経験のある人ならご存知でしょうが、お客さんというものは何組か固まって来られる傾向があります。例えば一時間ものあいだ誰一人として来られなくてヒマをもてあましているのに、次の十分間に五人も来られて忙しくてかなわないというような事があります。人が人を呼ぶというか、賑やかなところにはつい寄りたくなるもので、行列のできる何とかというのもこの心理のなせる業かと思います。逆にがらんとしたところには誰も寄りつかないもので、人っ子一人歩いておらず、家々も静まり返っているというような町は、恋に疲れた女が一人でさまようにはいいかもしれませんが、普通は敬遠されるようです。土山がそんな町でない事を願いたいものです。


「道の駅あいの土山」がこの頃元気です。いつもクルマが止まっていて、お客さんが絶える事がない。中に入れば何かしら面白そうなものがいっぱいあるし、従業員さんは美人揃いとあっては賑やかなのもうなずけます。それに近ごろ宿場風に改装されてそれだけでも入る気を起こさせます。店の造りが売上につながる好例で、ますます商売は繁盛のようです。お隣の関町でも観光客が増え、それにつれてお店が増えて、また客を呼ぶというふうに、良いふうに物事が進んでいっています。人が人を呼ぶ、土山がそんな町になっていって欲しいものです。


新しくなった道の駅あいの土山 きれいに整備された生里野公園

鮎河の城址探訪 (2面)


滋賀県には中世の城館跡が大変多く、約1300ヶ所といわれていますが、特に甲賀郡はそれが密集している地域で約300ヶ所もあります。これは甲賀五十三家と呼ばれるように主家、分家、親戚などからなる同名中惣(地侍の運命共同体のようなもの)が多数存在したからです。土山町には現在判っている城館跡だけで土山城址、音羽野城址、山中城址、頓宮城址、黒川城址、鮎河城址、それに大河原氏砦址と7ヶ所もありますが、そのうち鮎河地域に3ヶ所もあります。山中城址以外はいずれも頓宮氏の同名中惣と思われます。


城といっても、近世の天守閣をもつ大きなものではなく、土塁のようなもので石垣も一部使われていたようです。


鮎河城址


鮎河の東端の山すそにあります。南北朝の頃、南朝に属していた頓宮肥後弥九郎が反撃の拠点として築いた要塞跡で、ここで二度にわたり北朝側と戦いましたが、いずれも武運つたなく敗れ去ったそうです。現在は有志の方が小公園として整備されています。近くにある鷹尾山にも砦があったそうで鷹尾城とも呼ばれました。


鮎河城址

黒川城址


鮎河から黒川へ向かう県道の東側の山は今でも城山と呼ばれ、永禄年間(信長が勃興するころ)に黒川氏が築いた城のあった所です。黒川氏は松尾川の東を領有しており、東野、山女原、笹路、黒滝、黒川、猪鼻を支配していました。秀吉の頃に黒川以外の土地を没収され、大阪夏の陣の後にはその黒川も取り上げられましたが、当主の姉が紀州徳川家に側室として入ったために赦されて、明治まで黒川を支配しました。この側室の孫がテレビでも有名な暴れん坊将軍こと吉宗であるとの説があります。山内保育園の南側にある墓所は黒川侯歴代のものです。


黒川城址

大河原氏砦址


この砦址は鮎河公民館の後ろにある吉野山の山上にあります。京都で応仁の乱が起こっていた頃、将軍足利義政の庶子、又太郎が今の西野と大河原を領有し、その子源太が築いた砦といわれています。豊臣秀吉が紀州の雑賀衆や根来寺を攻めたとき、大河原氏は黒川氏と共に紀伊川の堤防修復工事を命ぜられましたが、工事が遅延したため、その責任を問われて領地を没収され滅亡しました。


大河原氏砦址
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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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