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土山ろまん第20号

つちやま 小さな町で (表紙)


妙な、世の中になった。


少し前までは常識であったことが常識でなくなり、思いもかけなかったようなことが平然と行われる。人文というものは、いつの時代にも移りゆくものだが、近年の変化は少し激し過ぎるきらいがある。


例えば、子どもである。外で遊ばない子が居る。ケータイでしか話すことの出来ない子が居る。いのち、という事を理解しない子が居る。多分、親にもそういう傾向があるのだろう。さらには、そういった子どもさえ産まなくなり、近いうちに社会というものがかなりいびつなものになってしまうのは確実であろう。


どうしてこんなになってしまったのか、という事は判らない。が、我々が出来ることは何か、という事は考えなければいけない事であろう。


兎は追えなくとも山はある。鮒は減ったが鮎の捕れる川もある。何よりもまだまだ人の情が都会よりもずっと高い濃度を保っている。不便なところではあるけれど、決して生活出来ないほどでもない。満更、土山も捨てたものでもないではないか。どのみち土山は田舎で、都会にはかなわないと思い込んでしまう貧しい心を捨てよう。都会にはないけれど、土山にはあるというものも確かに存在する。


風景の中に町がある。家並みが連なり、花がある。そしてそこに人が住む。妙な風潮に流されない、しっかりした人の暮らしがある。道が出来て交通が便利になっても、人が出て行ってしまう道があってはならない。小さな町は小さいながらの魅力を持つものであろうし、もっと小さな字(あざ)は字なりの誇りを持つ筈なのである。


北土山に出来た学童保育所

芭蕉とつちやま 投稿・小川 利彦氏 (3面)


さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかむ


はせを翁 梅室拝書


常明寺の山門を入って右手、鐘楼の傍にこの句碑が建っている。はせを翁とは芭蕉のこと、梅室とは洛東芭蕉堂主の高桑闌更の門人で、常明寺の禅俳僧虚白の俳友である桜井梅室のことである。虚白もまた闌更の門人であり、三好赤甫を初め、大原春枝、大原ひとみ、岩室多亀、堀如水、虚口金(※口偏に金)、木田句内、粟野祥雲など、芭蕉の流れを汲む多くの俳人を育てた。また芭蕉自身も一度はこの土山の地を踏んでおり、土山と芭蕉は多少なりとも縁がある。


漂泊の詩人、芭蕉は風雅の道を求め、西行法師ら古人の足跡を辿って句を作っている。「野ざらし紀行」は貞享元年秋より旅に出て、翌二年の春、奈良、京都、大津を経て名古屋に向かっているが、その途中、石部にて


つつじいけて 其陰に 干鱈さく女


と詠んでいる。この句の碑は石部の眞明寺に建てられている。その後、水口では知人の服部土芳に会って旧交を暖めつつ、


命二ツの 中に生きたる 桜哉


と詠んでいるが、これは西行の「年たけてまた越ゆべしと思いきやいのちなりけり小夜の中山」の歌を踏まえて詠んでいるものである。この「命二ツ・・・」の句碑は今は水口の大岡寺に建てられている。土芳と別れた芭蕉は、いよいよ土山にさしかかり、鈴鹿峠を目前にして、


ほつしんの 初めにこゆる 鈴鹿山


と詠むが、これもまた西行の「鈴鹿山うき世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらん」の一首を想って作られたものである。この「ほつしんの・・・」の句碑は現在、鈴鹿峠の関側に建っているが、本来ならこの碑は土山にこそ建てられるべきものであろう。


行春を あふみの人と をしみける


と詠んでいるように、芭蕉は近江の地をこよなく愛した人であり、「夏爐冬扇」で表される風雅感は、土山の文化の中にもまた生きているのである。


鈴鹿峠にある「ほつしんの・・・」の句碑
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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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