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土山ろまん第2号

提言 のれんをかけてみませんか? (表紙)


この頃、余り見られなくなったものの一つに、のれんがあります。のれんはもともとはと言いますと、軒先に張って日よけとする布ですが、江戸時代以降、商人では屋号などを染めぬいて商業用として使われて来ました。のれん分けとかのれん代とか、商売にまつわる言葉もあります。


さて、こののれん、今さらながら見直してみると、なかなか粋ではありませんか。夏などは風は通すけれども、他人の目は通さずで、合理的でもあります。商店に限らず、普通のおうちでも結構いけます。近代的なサッシの玄関に、藍染めののれんなんか似合うとは思いませんか? もっと凝りたい人はアルミでのれん掛けなんか拵えておくといいですね。


地価高騰や、人口の集中で、年々都会は住みにくくなりつゝあります。そしてこれからは地方の時代が来るとも言われています。でも、どの町でも黙っていても、若者がUターンして来て活気のある町になるかと言うと、決してそんな事はありません。少なくとも「ウチの町はこれで行こう」と言う特色づくりをしなければ、ただのありふれた田舎町でしかないと思います。


その一つとして、「土山の町並みを愛する会」では風情ある町並みを守り育ててゆこうと提案しています。と言いますと、いかにも古い町並みのみを唱えている様に思われるかも知れませんが、決してそれだけではありません。これまでの土山の町並みは、町に住む人々が伝え、守ってきた土山町特有の文化なのです。その文化を生かして、新しくきれいで、明るく、生活しやすい建築を創って行きたいと思います。まず手始めにのれんをかけてみませんか。


「のれんに腕押し」では困ります。私達の提言、少しは心の隅にでも置いといて、土山の町並みってどんなのがいいのだろうか。土山の文化って何だろうと、考えて下されば幸いです。


前田製茶本舗

家康公を助けた孫市の事 (3面)


老女曰く、


『今となっては昔のことでございますが、慶長五年六月十八日、即ち関ケ原の合戦の三月ほど前のことでございます。


徳川家康公は、会津の上杉様討伐の為、大坂より江戸へ向う途中、石部宿にご宿泊なされました。


この時、水口城主で豊臣政権の五奉行の一人、長束正家様は、天下を横取りされようとされる家康公を亡きものにしようと一策を案じられました。


どのような手立てかと申しますと、水口牛ヶ渕と申します所に新たに御殿をお建てになり、ここに家康公を朝餉にお招きしようとなされたのでございます。そしてこの御殿には落とし穴のような仕掛けがしてございまして、そこで家康公を弑し奉る手筈になって居りました。


ところが、この普請に加わって居りました大工の一人で、土山宿より罷りたる孫市と申す者、役人から妻子も水口城内へ連れてくる様にと申し付けられたのを不審に思い、土山宿に逃げ帰り、御殿に怪しい事ありと、村役人に申し出たのでございました。


驚いた村役人、これを石部宿代官笹山理兵衛殿に急報され、笹山殿より家康公へ御注進されたのでございます。これを聞かれた家康公、真夜中と申しますのに俄かに御出立、駕籠にて一気に、三雲、水口と駈け抜けられ、土山宿にて朝を迎えられ、無事、難を免れられたのでございました。


もしもこの時、土山宿の孫市の機転がなくば、世の中はいかようになったかも知れず、思えば恐ろしいことでございました。


このお話は土山本陣に伝えられますところの土山宿御由緒書に記されておりますが、何分にも昔のこと故、詳しいことはしかとは致しかねまする。』


※牛ヶ渕 国道307号線と旧国道1号線の交差点付近の地名


”あいの土山”を考える (4面)


「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」


土山を紹介すると、「あ、あの鈴鹿馬子唄に出てくる土山」とそれ程全国的に知れ渡った一節である。が、その「あい」の意味合いについては諸説入り乱れて定説を持たない。今回、その諸説をご紹介し、読者の考察を乞う。


(其ノ一)相の土山説


坂(坂下宿)と相対する土山(土山宿)とする説。鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候ががらりと違う。川柳に「土山で濡れた雨具を坂で干し」。


(其ノ二)間の宿説


宿駅制度が出来、土山が本宿に設定される以前は間(あい)の宿であった事から、土山宿は、坂下宿程繁栄していない事を唄ったとする説。「照る」を「栄える」、「雨が降る」を「さびれる」と解する様だ。


(其ノ三)鈴鹿の坂説


峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説。


(其ノ四)間の土山、松尾坂説


坂を鈴鹿の坂でなく、松尾坂とする説(今の白川橋上流辺り)。


(其ノ五)藍の土山説


当時土山では藍染めが盛んで藍草の栽培が行われていたとする説。(現在も紺屋と呼ばれる家がある)


(其ノ六)鮎の土山説


当時、土山では鮎漁が盛んで、特産物として有名であったとする説。


(其ノ七)あいのう土山説


北勢地方では「間もなく」という意味の「あいのう」という方言がある事から、「まもなく土山へ着く」とか「まもなく雨が降ってくるだろう」と解す説。


他にも説があるかも知れない。読者諸氏のご意見やいかに・・・。

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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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