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土山ろまん第16号

街に、そして人にやさしい家を (表紙)


気に入った壁かけがあったので買ってきた。さて飾ろうとしてハタと困ってしまった。我が家の壁にはどこにも釘が打てないのだ。仕方がないので換気扇のコンセントにぶらさげたが、どうも落ち着かない。こういう経験をするまでは何とも思わなかったが、新しい住まいというものは綺麗である半面、不便でもある。建てた人に云わせれば、そんな所に釘を打つな、折角きれいに貼ったクロスが破れてもいいのかと云うだろう。だが自分はわがままである。どうしても壁の真ん中に壁かけをかけたいのだ。こういう事が重なるとストレスがたまってくる。それでは最初から新しい素材で出来た家を建てなければよかろうという事になるが、実際はそんな訳にもいかない。


何も薄暗い昔の家がよかったと云うわけではないけれど、たまに古い民家の囲炉裏ばたに座らせて貰ったときの、あの落ち着きというか、気持ちがやすらぐ思いは何なのだろう? 明るい照明はないし、エアコンもないけれど、いつまでも座っていたい気分にさせるものはいったい何なのだろう?


古い民家を現代に再生させる建築家がいるらしい。またその素材となる古材を紹介してくれる古材バンクの会というものもあるらしい。その建築家のことばを紹介しよう。


「合理化を図るあまりに、日本の家は味わいを失いつつある。これを取り戻していく効果が古材にはある。そこで暮してきた人々の生活を長きにわたって見つめてきた古材の温かさが、人を優しくさせるということもある。」


土山でも簡単に建て替えるのではなくて、今までの家を生かして改装するということが行われている。また、新しく建てるにしても風土にあった外観を持った建て方をすることもよく行われている。


パリにはパリ風の、ベネチアにはベネチア風の街路があり、風情がある。日本の町、そして土山の町にはどんな建築が似合うのだろう。


改装された松山邸(北土山) 街道風の外観の土山公民館完成予想図

伊勢音頭 (2面、3面)


その土地の地名や名物を唄いこんでいる伊勢音頭。昔から大野にも次のような歌詞が残されていますので、ご紹介します。


アーアーヤレヨーオホホイ ナアー


チョイトコーコラデエー ナアー


大野の宿屋づくしで 申そなら


酒市五合で 気を晴らし


あなたの思いを 菊屋から


私の願いを 叶屋とて


お魚どんと 森田屋の


柏屋なんぞ 取り寄せて


日野屋 京屋の 居つゞけも


二人が中の 仲屋とて


丸く暮せと 丸屋なる


桝屋 桝屋と繁盛する


末のたのしみ 松坂屋


目出度 目出度の扇屋と


ひろげて たがいに よほゝい


御連中さん 暮そじゃないか


アーアーヤレヨーオホホイ ナアー


チョイトコーコラデエー ナアー


道行く粋な あんさんえ


大野名物 焼鳥を


食べて行きやんせ この味は


大野ならでは 食えぬ味


とりととりとで 二十里行って


あの味忘れず 引き返す


一ト口 食べた焼鳥が


おなかの中で さゝやいて


これでも昔は きじの鳥


けんけん鳴いた こともある


あまりけんけん鳴いたので


きじも鳴かずば うたれもしまい


他人の御意見 聞かぬ故


こんな姿に なりました


それでも 私は 果報者


あなたの様な 粋なお方と一緒になって


けんけん言っては 罰あたる


なんでもかんでも とりとりとりこんで


ともにちるまで よほゝい


御連中さん 暮そじゃないか


土山宿三ケ月屋事件 (3面)


徳川の世も八代吉宗の時代になると、庶民に倹約と制約が押し付けられ、人々の不満が高まり、土山にも庄屋から藩主への嘆願書「乍恐以書附奉願上候事」などの文書が残されている。やがて天保義民などのような百姓一揆、また旗本の一揆などが起こり、また大神宮のお札が家々に舞いおり、おかげ参りと称して神宮へ神宮へと押し寄せ、徳川政治の不満を訴えた。


やがて幕末、孝明天皇の妹、和宮を将軍の正室に迎えて公武合体を図り、江戸から京、京から江戸へと諸大名、公家の往来が日増しにはげしくなり、宿場は大変だったようである。


文久三年正月二日、一橋中納言慶喜公の一行が土山本陣に一泊、その後上京して御所、二条城の間を奔走。四月二十二日京を発ち大津泊まり、翌二十三日土山本陣泊まりの江戸への帰路の事である。一橋中納言慶喜公の一行は本陣へ泊まり、護衛役の和泉国岸和田城主、岡部駿河守長寛の一行と数人の供は三ケ月屋三右衛門へ泊まっていたところ、二十四日の早朝、浪人数人が切り込み、岡部駿河守は裏塀を乗り越えて本陣に逃げ込んだが、供の一人が切り込まれて、後日三ケ月屋において亡くなった。


岡部家は岸和田五万三千石の領主で、甲賀武士の内よりも数人が奉公している。その中に徳原村に住む竹村氏も明治維新まで岸和田藩士として禄を受けていた。この一行の中に竹村氏も入っていたのではなかろうか?


その後、一橋中納言慶喜は最後の将軍として第十五代将軍となり、大政奉還を行い明治維新へと続くのである。


(投稿・中都寺)

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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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