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土山ろまん第24号

改築された大澤公民館 (表紙)


昔、こんな感じの建物が土山小学校に建っていたのを覚えておられるだろうか。一階が職員室で二階が物置であったそうだが、二階で悪戯をして先生に叱られた人もいるのではないだろうか。もともとは田村神社の中にあった神宮寺の講堂であったのだが、土山小学校から大澤へ移転して公民館として四十年余り利用され、齢も百有余年を経て痛みも激しく、ついに改築されたものである。改築にあたっては以前の姿をなるだけ残すようにと、外観はほぼ昔どおりに建てられ、また部材も一部は以前の物を再利用し、百年以上も人々に触れられてきた温かみを残そうとしている。


大澤へ行った人ならあそこに古い公民館があった事を覚えているはずである。まして大澤に住んでいる人ならそこに公民館が建っていることは当たり前の事で、建っていなくてはならないものであり、また故郷を遠く離れている人は帰郷した際にその姿を見て、ああ帰って来たんだなと感慨を深めたのではなかろうか。風景の記憶とでも言おうか、在るべきものが在るべき所に在ってこそ人は落ち着きを持てるのだと思う。だからこの公民館は以前の姿を残そうとしたのであろう。


大澤の公民館のみならず世の中にはそのようなものが多く存在する。人の世が移り変わるのは仕方のない事だから、世につれて建物も変わっていくことも止むを得ないことであろう。しかし変わりようもいろいろである。取って付けたような奇抜なものや、無国籍風な建物が日本の国に似合うとは思われない。建て替えたためにそのあたりの風景が一変してしまうようなものは出来る限り避けるべきではないだろうか。


同時多発テロのためにアメリカのナショナリズムが異常に高揚している。軍事的なナショナリズムは御免こうむりたいが、アメリカのような歴史の浅い国でさえすさまじい愛国心を持っている。日本人も文化の面でもっとナショナリズムを発揮して、日本文化を愛し、大切なものを失うことのないようにしたい。


改築された大澤公民館 旧大澤公民館

この人と話そう 桂 歌助さん (2面)


桂 歌助さん

現代の東海道は土山に始まる


横浜の我が家からさほど遠くない所に東海道が通っています。東海道の宿場に生まれ育った人は自然と五十二人の仲間がいる事を知ります。「宿場」を合言葉に町おこし、人作りが出来る仲間、一緒に手をつないで考えてくれる仲間です。家康公が制定した東海道は四百年経ちました。その役割は変わりました。でもそこに住む人の人情は少しも変わりません。東海道五十三次の一員である事の誇りとプライドを持ってます。他の宿に負けるものかという愛宿心はどの街道より強いです。旅をしているとそれがひしひし伝わります。四百年祭の盛り上がり。すべて愛宿心からきています。その愛宿心の種を撒いたのは土山の皆さんです。十何年か前に各宿場にわざわざ訪ねていき、「東海道の五十三次の皆さん、集まりましょう」と呼びかけた。その時門前払いの宿もあったと思います。旅の辛さはそれをした者でないとわかりません。第一回の東海道シンポジウムが土山で開かれ、それが今大きく実を結びました。辛かったことも、今ではいい思い出でしょう。私も東海道を旅して、宿場寄席をやらせてもらい、水戸黄門にも出させてもらいました。辛いこともありました。辛い事があるから大きな達成感が得られる。これは旅をした人間でないとわかりません。日常の生活を離れて心細い中で親切にしてもらった人は一生忘れません。私にとってそれが財産です。辛いことも嬉しい事も、全て東海道の皆さんのお陰。その先べんをつけてくれた土山宿のお陰です。


便利優先の世の中で古い物が忘れ去られつつある中、新しい東海道の道をつけてくれた土山宿の皆さんに改めてお礼申し上げます。ありがとうございます。


桂 歌助 プロフィール


本名 関口 昇


出身地 新潟県十日町市


現在地 横浜市港南区


生年月日 昭和37年9月19日生


芸歴

昭和60年12月 師匠歌丸に入門、歌児となる


昭和61年5月 前座になる


平成2年6月 二ツ目に昇進、歌助に改名


平成11年5月 真打に昇進


出囃子

十日町小唄


趣味

草野球・ヘボ碁・旧街道歩き(旅人倶楽部)・パソコン(インターネット)・子守


特技

寄席踊り(カッポレ、奴さん、ずぼら等)


家紋

丸に三つ柏


自己紹介

雪ときものとコシヒカリの町新潟県十日町市で生まれました。5人兄弟の3男。高校時代は甲子園をめざして練習にあけくれました。が、あと3歩のところで涙をのみ、甲子園には見に来ました。監督としてもう一度甲子園をめざそうと東京理科大学理学部数学科に入るまでは良かったのですが、その後野球の道は断念し、数学を専攻し、英語研究部に所属し、在学中に落語家になりました。何と計画性のない人生。落語以外の活動として平成7年10月に新宿コマ劇場細川たかし公演にて役者として芝居、踊りで出演。真打昇進後の平成11年6月から8月にかけて東海道五十三次すべての宿場で落語会を行いました。平成12年TBS「水戸黄門」に先達役で準レギュラー出演。


滝樹神社に残る宝筐印塔(ほうきょういんとう)の話 (3面)


前野にある滝樹神社の神苑の西方に立派な宝筐印塔が建っています。四方に尊像が刻まれており、石塔建造物としても貴重なものですが、さてこの塔はいったい誰を祀ってあるのでしょう。


六世紀の朝鮮半島には高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)などの国がありましたが、半島の一番南のあたり任那(みまな)という小さな国があり日本の大和王権の勢力が及んでいたとされています。しかし任那は大きな国である新羅に何度も攻められ、ついには西暦562年に滅ぼされるのですが、そういう経過の中で日本から援軍が派遣された事があります。このとき天皇から命ぜられて渡韓したのが大伴狭手彦(おおとものさでひこ)という人でした。狭手彦は宣化(せんか)、欽明(きんめい)天皇の時代である六世紀中ごろの人ですが、渡海して任那を助け、さらに勝ちに乗じて新羅に攻め入り、その財宝を日本に持ち帰ったという勇将です。


この偉業を後世に残さんとして、狭手彦の子孫であるところの山南六家(さんなんろくけ)(大原、瀧、上野、池田、和田、高峰)が鎌倉時代の1280年7月18日にこの地に宝筐印塔を建立したとされています。狭手彦は軍事のみならず、山水の風景を好む文人でもあったようで、そんな事から子孫が風光明媚な野洲川河畔のこの地を鎮魂の塔を建立する場として選ばれたようです。


少し前までは、今も残る山南六家の子孫の方が毎年7月18日に御膳を献じて、また塔の保護もされておられたのですが、近年はそれも途絶え、荒廃しつつあります。


宝筐印塔

秘蔵写真 馬上の医者 (4面)


馬にまたがって手綱を探っておられるのは、岡崎春海氏というお医者様です。岡崎家は代々、亀山藩の御典医を務める家柄でしたが、春海氏は明治から大正にかけて現在の北土山1553番地で岡崎医院を開かれていました。往診されるときは写真のように長靴を履き、診察かばんを持って馬に乗って出かけられたそうです。


写真は大正6年頃、氏が70才の頃に田村神社の境内で写されたもので、これを写した2~3年後に亡くなられたということです。


この写真は氏の孫で横浜市在住の信原つね子さんよりお借りしました。


秘蔵写真 馬上の医者
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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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