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土山ろまん第19号

弥次さん喜多さん土山へ 生里野にて (表紙)


弥次「やれやれ、やっと鈴鹿峠を越えて土山までたどりついたぜ」


喜多「いゃあ、くたびれたなあ。今晩は土山宿で泊まるとして、ここらで一服しようぜ」


と、「道の駅あいの土山」で買った、いが饅頭をほおばって一休みする弥次さん喜多さん。ここはこの春完成した生里野地蔵公園。新しい地蔵堂や句碑、絵の看板などが立ち並ぶきれいな公園である。句碑には『吹けば吹け櫛を買たに秋の風』鬼貫とある。


弥次「そう云や喜多さん、ここの土産は蟹が坂飴とお六櫛て書いてなかったっけ?」


喜多「そうよ、見てみねえ。櫛屋らしい屋号の看板がずいぶんとあるじゃねぇか」


弥次「ところで鬼貫ってどんな野郎だい」


喜多「野郎ってやつはないぜ、そこに書いてあるだろ。えーと伊丹生まれの俳人で貞享三年ってから随分むかしのことだが、江戸へ下る途中に土山で泊まって、あくる朝この辺でお六櫛を買ったてぇことだぜ」


弥次「この立て札にゃ土山の町並みを愛する会って書いてあるぜ」


喜多「この会じゃ、これからもこういう碑をたくさん建てていくんだそうだぜ」


弥次「喜多さん、こっちの絵はなんだい?」


喜多「何も知らねえ野郎だなおめえは。これはあの有名な広重の『春の雨』ってんだよ」


弥次「ははあ、で何でこんな所に絵があるんだい」


喜多「見てみろい、鈴鹿の近藤初雄って人が、この夏に寄贈したって書いてあるだろ」


弥次「へえ、奇特な人もいたもんだ。しかしまあ上手にかいてあるじゃねえか」


喜多「まあこうして街道がきれいになってくのは、俺たちにゃありがてえことだ。見ているだけで楽しくなっちまあ」


弥次「そうそう、饅頭を食いながら一服できるからなぁ。ところで晩飯は何を食おう?」


喜多「全くおめえは食い気がはってらあ。じゃあ土山名物、夕霧そばってのにしようぜ」


弥次「そいつぁいいや、喜多さん早く行こう」


喜多「あっ、雨が降ってきやがった。まさしく『あいの土山雨が降る』ってやつだ。弥次さん急ごうぜ」


生里野地蔵公園1 生里野地蔵公園2

森鷗外と土山 常明寺の森家墓地のこと (4面)


明治の文豪、森鷗外は明治三十三年三月二日に土山を訪れたことがある。この地で亡くなった祖父白仙の墓に詣でるためであった。


津和野藩の藩医であった白仙は一八六一年十一月、帰国の途中、土山宿の旅籠井筒屋(現在は南土山、岩室義一氏宅)で急病のために死去した。遺体は常明寺に葬られた。三十一年後、軍医であった鷗外は上京の途中、鉄道を三雲で降り、人力車を雇って常明寺に詣でる。このあたりの事は鷗外の「小倉日記」に書かれている。しかし目指す白仙の墓は寺には無く、探してみると少し離れた将軍地の墓地に荒れた状態になっていたという。そこで鷗外は住職の固道と交渉し墓を境内に移した。後に白仙の妻きよ子と、その娘で鷗外の母の峰子も同じ墓に葬られた。


時は経ち昭和二十八年、この墓をめぐり事件が起きた。翌年が鷗外没後三十三年にあたり、これを期して鷗外関係の墓を生地に集める動きが津和野の一部人士の間に起こったらしい。津和野から何人かの人が常明寺に訪れて墓の移転を申し入れた。寺側は当惑したが、鷗外の息子の於菟が同意し、寺もいくつかの条件を付けた上で同意した。この交渉の経過は土山周辺では大変な評判となり、新聞も盛んに報道したという。


昭和六十三年、鷗外の孫、真章(Max)氏の尽力で白仙、きよ子、峰子の三霊の供養塔と、従来の経緯を記した墓誌が常明寺の森家墓域に建立された。墓誌に記された祖父、祖母、母とは鷗外からみての関係であるということが注目される。いろいろ変遷のあった森家の墓であるが、ここにようやく鷗外の遺志を汲み、慰霊がなされたこととなる。


(日本医事新報/岩崎良文氏より)


昭和63年11月3日に行われた供養塔の除幕 南土山にある、森白仙終焉の地(井筒屋)
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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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