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土山ろまん第33号

歩いてみれば・・・ (表紙)


犬も歩けば棒にあたる。クルマが走れば事故にあうか、渋滞にあう。しかし人が歩けば人に会う。出会いは嬉しいものだ。


急ぐ人はクルマに乗って、きつい顔をして一秒でも節約しようと必死である。歩いている人は急がない。そして顔がやさしい。


クルマに乗る人の感情の多くは苛立ちと排他的な心であろう。そしていつも張りつめていなければならない神経の疲れと、わき見の出来ないつまらなさ。それは歩いている人に較べてなんと非人間的なことだろう。


ほとんどの職業はクルマなしでは成り立たない。買い物に行くのにもクルマは不可欠だ。好むと好まざるに関わらず人はクルマに乗る。が、しかし時には歩いてみよう。きっと同じ景色でもやさしく見ることが出来るにちがいない。


来年からは60才の定年を迎える人が大量に出るといわれる。いわゆる2007年問題である。団塊の世代と呼ばれ、企業戦士として高度成長を担い、少しでも早く、少しでも大きくと、まるでクルマの性能を競うがごとく常に猛スピードで走らされてきた人たちである。否応なく停車を余儀なくされ、かといって廃車にするにはまだまだもったいない性能を有するこれらの多くの人たちはこれからどういう生き方をしていくのだろう。


とりあえず歩いてみよう。ゆっくりとだ。今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない。そして人に会おう。仕事上での人との付き合い方とは全く違うものが見えてくるはずだ。


まさしく自分の足で街道を歩いている人もいる。急ぎもせず、あちらこちらとわき見をしながら、見るべきものは見、見知らぬ人と語り、ときに一服をしながら、彼らは自分の旅を楽しんでいるかのようだ。


旅人、東海道をゆく
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土山ろまん第32号

地域に根付く安全で快適な建物を・・・ (表紙)


甲賀病院を建て替える、というがその用地がまだ決まらないらしい。素人目には今の建物でも十分なようにも思えるが、築40年を過ぎて老朽化しているというし、また今、話題になっている耐震性にも問題があるのだろう。生身の体の平均寿命がほぼ80年にも延びたというのに、鉄筋コンクリートで作られたものが僅か40年ほどで老化するというのも納得しがたい話だが、市民の利便と安全を考えての上のことであるからそれはそれで結構なことである。


しかし考えてみればこれから建築される病院も40年程度しか保たないというのなら、現代の世代が生きているうちにもう一度建て直さなければならない勘定になる。どうせ建て直すというのであれば少なくとも今後百年くらいは使えるようであって欲しいし、巨費をかけてたった40年ではちょっと勿体ないように思える。建物の規模も性能も違うし、建築基準も厳しくなってきた状況の中で較べるのはむつかしいが、日本にも長い寿命を誇っている建築が数多くある。滋賀県でもヴォーリズさんの手がけた建築が補修されながらではあるがいくつも現役でがんばっている。


国会議事堂やバッキンガム宮殿みたいな建築、というのはいささか望みすぎであろうが、新しい病院は時代を超えて生き続けられるようなものを期待したい。流行りものはすたれものである。時代に迎合したような粋な建築はいらない。最も大事な市民の健康を守り、市民に親しまれるべき病院は、甲賀にあの名建築ありと後世まで謳われるようなものであってほしい。数々の制約と限られた予算の中で、それでもなお我が名を残したいと望む建築家諸氏の発奮を期待する。


滋賀銀行甲南支店 旧水口図書館

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の滋賀銀行甲南支店(左)と旧水口図書館(右)


歴史の水・探索 -造り酒屋さんから- (2面)


澄んだ鈴鹿の伏流水が湧き出す井戸

今回は徳原にあるレンガ造りの高い煙突から今も煙をあげている安井酒造場へ歴史の水を求めて探索へ伺いました。


2月1日折しも丁度酒造りの真っ最中で、お忙しい中の訪問となりましたが快く場内の説明や酒造りの説明をしていただけました。


安井酒造場さんは息子さんで5代目となり、130有余年の歴史があり戦中一時、酒造りが途絶えた時もあったそうですが、酒の命でもある水は今も地下10メートルから湧き出る井戸水によって今日まで受け継がれています。


この井戸水は100年以上枯れることなく、米洗いから仕込み水まで全てこの井戸水を使い、うまい酒の素となっているそうです。酒造りの始まりは、この大切な井戸の掃除から始まるという程大切な物だそうです。


井戸の中を覗かせていただくと、綺麗な澄みきった水が歴史の深さを感じさせてくれました。


酒造りの事を詳しく載せたいとこですが、素人が間違った事を言ってもいけませんので詳細については控えさせていただきますが、蔵へ案内していただくと甘くフルーツの様な香りが漂ってきました。タンクの中にある醪を仕込み順に見せていただき米からだんだんと泡が出て行く様子がわかり、うかつに顔を突っ込むと咳き込むほど強烈なアルコールの臭いがしてきました。あらためて酒というのは生き物なんだということを感じ又、この酒の素があの歴史の水なんだということを感じました。


我が土山は歴史が深く皆様方の中にもいろんな形で歴史の水のお世話になっているお宅が多いのではないでしょうか。時代が進むにつれ地下の様子も変化しつつありますが、いつまでも歴史の恩恵を受けられるように現代に生きる我々の責任は重大ではないでしょうか。


この記事が掲載される頃、おいしい新酒が出来上がっていると思いますので、皆様も一度尋ねて見てはいかがでしょうか。


ここで麹を暖めてねかせます 仕込みタンクの中で発酵中

一寸コラム


使わなくなったタンク

今では使わなくなったタンクが沢山あり、ご主人が「誰かほしい人いませんやろか」とお聞きになられておりました。どなたかいりませんか?ほしい方は安井酒造場さんまでお問い合わせください。但し、巨大なタンクをとりだすには家を取り壊さなければならないそうです。


武平峠の鎌田正清邸跡 (3面)


「せめて太刀なりと!」と源義朝は叫んだ。平治の乱に敗れた後、落ち延びた先の知多半島の野間で源氏の棟梁、義朝は風呂場で裸でいるところを騙まし討ちにあった。その義朝の一の郎党、鎌田正清も奮戦むなしく殺された。謀ったのは正清の妻の父とその一族であっただけに、正清の無念いかがなりかと思われる。


鎌田正清(政清、1123~1160)は相模の国の武士、鎌田通清の子であり、母は源義朝の乳母である。義朝い従い保元・平治の乱に参戦。武芸の達人であり。彼の編み出した槍術はその子を通じて義経にまで受け継がれる。義朝の死後、義朝の子らは処刑されたりするが、頼朝は助命されて伊豆に流され、また牛若丸と呼ばれた義経は鞍馬寺に預けられた。その牛若丸にひそかに源氏の再興をささやきかけ、ついに彼を平家打倒に立ち上がらせたのは鎌田正清の子、正近であった。鞍馬の山中で牛若丸に武術を教えたという天狗とはひょっとすると正近だったのかもしれない。義経の四天王として活躍した者のうち鎌田盛政、光政の兄弟もまた鎌田正清の子であった。


ところで武平峠に鎌田正清のものだと伝えられる屋敷跡がある。古くから人々は天狗が住んでいると恐れて近づかないようにしていたという。保元物語などからみても正清がこの地に住んでいたとは考えにくいが、正清ゆかりの者、例えば子の正近あたりが住んでいたのではないかなどと想像するのは楽しい。されば大河ドラマ「義経」でしか知らない源平合戦も身近に感じることが出来ようというものである。ちなみに鎌ヶ岳は鎌田の姓より名付けられたと伝えられる。


鎌田正清

土山ろまん第31号

建物の寿命 (表紙)


物の本によれば現代の建物に使われている素材のうち、一番寿命の短いのは鉄筋コンクリートだそうで、せいぜい数十年しかもたないそうだ。いっけん木造のほうが保ちが悪そうだが、法隆寺や薬師寺が千年以上も保っていることでもわかるように、釘の一本一本を厳選するほどまでに丁寧に建ててある建物の寿命はずいぶんと長いらしい。ということは都会では木造の町屋以外は数十年単位で建て替え続けねば廃墟になってしまう理屈であって、高さ何百メートルといった高層ビルもそのうちに壊さなくてはいけないと聞くと何か薄ら寒くなってしまう。当たり前のことだが、そんな状態で今後、伝統的建造物群に指定されるような町並みが作られるはずがないわけで、いま既にある日本の美しい町並みが滅びてしまったら、その後は建物に関しては味わいの少ない町になってしまうのであろう。テレビで見るヨーロッパの街などでは二百年とか三百年とかの古いアパートや民家があっていまでも普通に使われているようだが、新しいものこそ良かれとする我々の風土では考えられないことだ。地震や多雨といった日本特有の自然環境の厳しさもあるが、しかしそれを乗り越えて永く行き続ける民家があってもよい。よく店の看板にSince○○とか書いてその店の歴史を誇っているものがあるが、我々の家も玄関に○○年建築と書いて逆に古さを誇ってみてはどうだろうか。


田村神社と蟹坂の間に広重の絵に描かれたような橋が架かった。どうか永いこと旅人に親しまれるような橋であり続けてほしいものだ。


海道橋を渡る大名行列?

土山ろまん第30号

鷗外と清張 (表紙)


「山椒大夫」、「高瀬舟」などの名作で知られる森鷗外が土山を訪れたのは明治33年3月、鷗外39歳のこと、この地で40年前に亡くなった祖父森白仙の菩提を弔うためであった。鷗外は人骨が散乱しているような荒れ果てた状態の墓地(今の大山橋のたもと)に祖父の墓を見つけ、これを常明寺に移した。その後鷗外自身は来なかったものの明治39年に祖母清を、また大正5年には母ミ子(ミネ)を常明寺に祀っている。しかしながらこれらの墓は現在では石見の国、津和野の永明寺(ようめいじ)に移されて、常明寺には新しい供養塔が建てられているのみである。なお森白仙は津和野藩の医者であったが、持病の脚気のため江戸から国許に帰る藩主の供が出来ずに周囲から白眼視されていた。やむなく療養不十分のまま遅れて帰国の途に着いたが、無理な長旅をした挙句ついに土山の宿で病死したのである。


鷗外の来訪から85年後の昭和60年3月に「黒革の手帳」、「砂の器」などで有名な作家松本清張が土山の地を訪れ、常明寺住職塩澤玄泰師に案内を請うている。晩年近くに清張は鷗外の足跡を克明にたどった「両像・森鷗外」を発表しているが、その取材のために訪れたのであった。このなかで彼はなぜ鷗外が祖父の死後40年も経ったこの時期に祖父の墓を訪れる気になったのかを推測している。それによれば軍医であった鷗外はこの時期には九州小倉の師団に左遷されて失意の心を抱いており、祖父もまた病気と失意の中で旅空に虚しくなったことに強い想いを抱き、東京への出張の途次に土山を訪れたのではないかと書いている。清張のデビュー作は昭和27年の「ある『小倉日記』伝」であり、これまた鷗外にまつわる小説であった。


このほど東海道伝馬館の前に鷗外の文学碑が建立された。明治の文豪のみならず昭和の大作家にも思いをはせていただきたいものである。


東海道伝馬館の玄関に建つ森鴎外の文学碑

土山の城址探訪その2 (2面、3面)


土山には鎌倉時代から、南北朝、室町、戦国時代そして安土桃山時代にかけて大小入れると20以上の城や砦があったとされていますが、そのうち主だったものは7ヶ城あります。前回に紹介した鮎河の3ヶ城に続き、残る4ヶ城を訪ねてみました。


山中城址


山中の十楽寺近くにあったこの城には鎌倉時代から山中氏が居り、山中村の地頭職として鈴鹿の山賊を鎮める役目を受けていた。後、山中氏は柏木荘に移り宇田に城館を築いて住んだ。今でも水口の宇田周辺に山中姓が多いのはそれ故であろう。1542年に伊勢の北畠氏が甲賀に侵入してきたときには山中氏は六角氏の応援を受けてこれと戦い敗退させている。この戦いは蟹坂付近で行われたことから蟹坂合戦として伝えられている。山中氏は1585年に秀吉に領地を没収され、また関が原の合戦の直前には伏見城に籠城して当主以下10名の戦士が全員戦死している。伏見城は戦略上、徳川方の捨石になる運命であったため、籠城に先立ち一族の滅亡を予感した当主は家代々に伝わる文書を伊勢神宮に納めてから伏見に赴いた。従って現在も山中文書は神宮文庫に残されている。


山中城址

頓宮城址


頓宮の東光寺の裏山にあった城で鎌倉時代から勃った土豪頓宮氏が築いたものである。頓宮氏は甲賀五十三家のひとつで南北朝のころは南朝に属しており、頓宮弥九郎が鮎河城に立てこもって2度にわたって北朝側と戦ったが敗れて伊勢に逃れた。その為しばらくの間は岩室氏にこのあたりの支配を奪われていたが、室町初期には復帰して地頭に任ぜられ山中氏とともに土山を支配した。15世紀末に音羽野城に移ったため、廃城となった。鮎河の黒川城にいた黒川氏、同じく鮎河に居た大河原氏、土山城に居た土山氏などは皆この頓宮氏の一族である。城址はほとんど残されていないが山上に広がる台地は今も城山と通称されている。


頓宮城址

音羽野城址


頓宮城に居た頓宮氏が15世紀末にこの音羽野へ移り住んで築いた城である。青瀬橋の南東にある丘の上にあり、今でも壕の跡がはっきりと残り、また庭石らしき苔むした石が散見される。この当時の配下の名には、飯塚、根縫、宇佐見、堀などの今も青土にある姓が見受けられる。頓宮氏は近江の守護大名六角氏の下にあったが、六角氏が信長に滅ぼされた後は信長につき、さらに後は秀吉に従った。しかし秀吉が今の和歌山にある雑賀衆や根来寺を攻めたとき、紀伊川の堤防修復工事を命ぜられたものの不手際があったとして1585年に同族の黒川氏、大河原氏とともに城地を没収された。


音羽野城址

土山城址


北土山の畑地区を東西に走る道は土山町の中では最古の道と伝えられている。その道の北方の丘には土山鹿之助が15世紀後半に築いた土山城があった。鹿之助は音羽野城の頓宮氏の分家で甲賀五十三家のうち特に武名高い二十一家のうちのひとつである。城址は現在でもよく見ると空壕の跡が残されており、屋敷があったとされる平坦地も認められる。土山城は織田信長の家臣で大原出身の武将滝川一益に1582年に攻められて落城したが、秀吉と家康が戦った小牧、長久手の戦いの時には秀吉の道中の拠点のひとつとして整備された。このとき秀吉は土山から山女原の安楽越を通って伊勢に抜けたのである。また土山氏はその後、徳川家光の時代に本陣職を命ぜられ、以後代々これを勤め、現在も土山本陣跡を守っておられる。


土山城址

こんどの東海道シンポジウムは五十七番目の宿でっせ! (3面)


東海道は五十三次やと私らは思い込んでましたが、実は五十七次あるねんというのが、近頃は通説になってます。というのは五十三次は江戸と京の間のことで、実は東海道は江戸と大坂を結ぶ道やそうで、この間には五十七次あるんやそうです。これは幕府の出した文書や、東海道分間延絵図でそうなってるんやそうで間違いないそうです。幕府の理屈では西国の大名たちが京に入って朝廷と接触してよからぬ相談をしたら困る、せやし京には入るな、手前の山科の追分から伏見のほうへ廻って行け、ゆうことを命令したんやそうです。それに大坂は天下の台所やし、モノの流通のためにもその方が便利やろとゆうわけです。せやし大津宿の次は伏見宿、そして淀、枚方、守口ときて大坂となるわけです。ここらは徳川はんの世になって間無しの1616年に宿駅に指定されてます。実はその前の太閤秀吉さんが大坂の城と伏見の城を行き来するのに便利なように、文禄3年に淀川の東岸に堤を造らはって、その堤の上を道にしたのがこの大坂街道やとゆうことです。別名、京街道とも云いますけど。せやしこの堤のことを太閤堤とか文禄堤と呼んでまして、今でも守口の中心にはこの堤が残ってます。その守口の歴史街道推進世話人会の人らが音頭とってこの秋に東海道シンポをやってくれはります。大阪でやるのは初めてやそうで、11月の12と13の2日間、お手すきのお人はぜひ守口へ行ったげてください。

土山ろまん第29号

美しいまちへ (表紙)


遠くに鈴鹿の山々を望み、みどりの茶畑と水田、花が咲き乱れる庭を持った家々、そして何より町を美しくしようとする人々のこころ。どこよりも土山は美しい町だと誇りを持って私たちは暮らしてきた。妙に作られすぎた町並みではなく、人が生きていく中でごくごく自然に美しい町として育ってきた。人目につくところに人目をはばかるようなものを置かず、周囲の景色に調和しないようなものを排除して、そして静かで落ち着いた町として存在してきた。それは東海道を徒歩で旅する人たちが皆、土山はいい町だと褒めてくれることでもよく判る。そして私たちは土山の町を愛しているのだ。


五つの町が一つになった。性格も考え方もそれぞれのものを持っていた町が一つのものに統一される。これからは水口も信楽もよその町ではなく私たちの町になるのだ。土山のことは土山の者が決めるということはもう出来なくなる。それは他の町でも同じことだ。一つになった以上、地域エゴは捨てなければならないが、それぞれの町が持っていた文化のせめぎあいが起こることだろう。優れた文化のみを残し、そうでないものは捨て去らねばならない。そのとき私たち土山びとは美しい町を守るという文化を決して失わないようにしたいものだ。


優れたものがそうでないものを排除することはむつかしい。多くの場合、その逆になりやすい。どうか新しい市があまねく美しい街になることを願わずにはいられない。


東海道を舞台によさこいソーラン -宿場まつりで-
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土山の町並みを愛する会

Author:土山の町並みを愛する会

東海道の宿場として栄えてきた土山の歴史と文化がなくなっていく現状をなんとかくいとめられないかと東海道五十三次シンポジウムや村おこしの参加者らが、発起人となり設立しました。土山らしい町並みの創造に向け広報、研修等に取り組んでいます。

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